野球史跡
日本野球発祥の地
この地には、もと東京大学およびおの前身の開成学校があった。一八七二(明治五)年学制施行当初、第一大学区第一番中学と呼ばれた同校でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏(一八四三~一九二七)が学課の傍ら生徒達に野球を教えた。この野球は翌七三年に新校舎とともに立派な運動場が整備されると、本格的な試合ができるまでに成長した。これが「日本の野球の始まり」といわれている。七六年初夏に京浜在住のアメリカ人チームと国際試合をした記録も残っている。ウィルソン氏はアメリカ合衆国メイン州コーラム出身、志願して南北戦争に従軍した後、七一年九月にサンフランシスコで日本政府と契約し、来日、七七年七月東京大学が発足した後に満期解約、帰国した。
同氏が教えた野球は、開成学校から同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)その他の学校へ伝わり、やがて全国的に広まっていった。
二〇〇三年、同氏は野球伝来の功労者として野球殿堂入りした。
まさにこの地は「日本野球発祥の地」である。

日本野球発祥の地
正岡子規記念球場
正岡子規(1867~J1902)は俳人、歌人、随筆家であり、現在の愛媛県松山市に生まれた。名は常規。子規は、明治時代のはじめに日本に紹介されて間もない野球(ベースボール)を愛好し、明治19年頃から同23年頃にかけて上野公園内で野球を楽しんでいた。
子規の随筆「筆まかせ」には、明治23年3月21日午後に上野公園博物館横空地d試合を行ったことが記されており、子規はこのとき捕手であったことがわかる。子規の雅号のひとつに、幼名の升にちなみ「野球(の・ぼーる)」という号がある。子規は野球を俳句や短歌、また随筆、小説に描いてその普及に貢献した。ベースボールを「弄球」と訳したほか「打者」「走者」「直球」などの訳語は現在も使われている。これらの功績から平成14年に野球殿堂入りをした。
子規が明治27から同35年に亡くなるまで住んでいた住居は、戦後再建され「子規庵」(台東区根岸2-5-11)の名で公開されている。
上野恩賜公園開園式典130周年を記念して、ここに子規の句碑を建立し、野球場に「正岡子規記念球場」の愛称が付いた。

正岡子規記念球場 正岡子規記念球場碑
鎮魂の碑
「第二次世界大戦に出陣しプロ野球の未来に永遠の夢を託しつゝ、戦塵に散華した選手諸君の霊を慰めるためわれら有志あいはかりてこれを建つ」と碑文にあります。

鎮魂の碑
王貞治ゆかりの地

業平公園 墨田区業平2-3
「王貞治の野球はここから始まりました」とあります。この公園で少年時代の王さんが野球をやっていて、隣の小学校の屋根を越える大飛球を飛ばしていたとのこと。
墨田区総合体育館内には、王さんのユニホームや写真などゆかりの品が展示してあります。

ここが王さんの生家跡地(墨田区八広3-38-7)。ここで王さんが生まれ、当時生家は中華五十番を営んでいて、1946年に業平2丁目に移転するまで暮らしていたそうです。

隅田公園少年野球場(墨田区向島5-6-13)。王さんのレリーフがあります。

「この少年野球場は昭和24年戦後の荒廃した時代に「少年に明日への希望」をスローガンとして、有志や子ども達の荒地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場です。以来数多くの少年球児がこの球場から巣立っていったが、中でも日本が誇る世界のホームラン王巨人軍王貞治氏もこの球場から育った一人です。」とあります。

王さんのホームランは隅田川(高速道路向こう側)に飛び込むこともあったそうです。