過去と現在の中川

奥戸地域が位置する東京低地は、荒川、中川、江戸川などの大河に囲まれ、何度も大きな洪水や高潮などの水害に襲われてきました。そのため、この地域では、河川・高潮堤防などの整備が進められ、現在では、水害は軽減されえています。
現在、防潮堤や護岸、水門・排水機場等は、昭和34年(1959)に国内で最大の高潮被害をもたらした伊勢湾台風と同じ規模の台風が、東京湾に最も被害をもたらすコースを進んだ場合に発生する高潮に対応できるように整備されています。
また、地震による護岸損傷が原因で起こる災害を防ぐため、耐震補強工事も行われています。
さらに、近年では環境に配慮した整備と保全にも力を入れています。環境と調和した潤いある豊かな水辺空間を実現するため、水辺のテラス整備が進められています。


奥戸と中川

東葛西領用水絵図は、江戸時代の用水体系が描かれた絵図になります。図で黒く示されたものは堤をあらわしており、上流に描かれている小合溜井は現在の水元公園となります。この小合溜井は、享保14年(1729)に8代将軍徳川吉宗の命を受けた井澤弥惣兵衛によって整備されました。
井澤弥惣兵衛は、紀州藩出身の治水技術者で幕府の新田開発や治水事業に係わってします。埼玉県の見沼代用水や千葉県の手賀沼なども井澤弥惣兵衛によって整備されました。
奥戸地域を含めた中川についても、井澤によって河川改修が行われています。この河川改修では、享保17年(1732)に奥戸~諏訪野間に新しい河道を開削しており、河道を切り替えることにより、河道の直線化が図られました。
現在地であるこのビュースポットも、旧河道だったことがわかると思います。この旧河道は、現在、南北ともに葛飾区奥戸総合スポーツセンターが位置しています。




葛飾の歴史

「かつしか」という地名は、古くから使われた呼び名で、日本最初の歌集「万葉集」にも登場します。文献による初見史料としては、校倉造りで有な奈良東大寺正倉院に保管されている養老5年(721)「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」にその名を認めることができます。
この下総国葛飾郡」は大宝元年(701)に大宝律令に基づいて区分けされました。郡域は現在の千葉・埼玉・茨城県と東京都の一部を含む南北に長い範囲でした。
その後、下総国葛飾郡は武蔵国葛西領となり、明治2年(1869)小菅県、同4年(1871)廃藩置県で東京府となり、同11年(1878)郡区町村編成で東京府南葛飾郡となりました。
明治22年には、後に葛飾区となる7か町村が編成され、昭和7年(1932)東京市葛飾区、同18年(1943)東京都葛飾区となり、現在に至っています。

奥戸の由来
奥戸は奥津が変化した地名です。津は港津をあらわし、対岸へ渡ることのできる渡し場を意味するものと言われています。地名に戸の字がつくところは、渡し場のようなものが設けられていた地域が多く、川を利用した舟運が発達していました。江東区の亀戸、葛飾区の青戸、台東区の今戸は、亀津、青津、今津、千葉県の松戸は松里津として記録があります。
中世の文書の例としては、関東管領上杉憲実の家臣である藤原家定が鎌倉八幡宮に寄付した文書で、奥津が登場しています。
19世紀の江戸幕府の官選地誌「新編武蔵風土記稿」による戸数は、奥戸村90戸、奥戸新田村82戸でした。明治10年代の「皇国地誌」による戸数・人口は、奥戸村109戸・521人、奥戸新田村85戸・440人でした。農業が主体でしたが、両村で荷船30・漁船3艘を有しており、河川の深い関わりを知ることができます。


東部低地帯の水害の歴史

奥戸地域が含まれる東部低地帯は、隅田川、荒川、中川、江戸川などの大きな河川とそれらの支川が縦断に流れています。東部低地帯の水害をみると、江戸三大洪水である寛保2年(1742)では荒川の小谷野村堤、天明6年(1786)では利根川の権現堂堤、弘化3年(1846)では荒川の千住堤が決壊しています。
明治以降も多数の水害が発生し、明治43年(1910)では台風による集中豪雨で、関東平野一面が水浸しになりました。この洪水を機に荒川放水路、江戸川放水路が開削され、昭和13年の洪水、高潮を機に中川放水路が開削されました。昭和22年(1947)のカスリーン台風は、葛飾にも大きな被害をもたらしました。




昭和22年(1947)カスリーン台風
カスリーン台風は、第二次世界大戦後間もない昭和22年(1947)9月に発生し、関東や東北地方に大きな被害をもたらしました。本州に停滞した前線により、関東平野部や周辺山地の総雨量は、300~500mmにおよぶ戦後治水史上に残る大雨を記録しました
大洪水の発端は、現在の埼玉県加須市付近の利根川の340mにもおよぶ堤防決壊と熊谷市付近の荒川の堤防決壊です。大量の濁流が南下し、東京下町は一気に濁流に飲み込まれました。


東京低地のなりたち

東京低地は、23区の東部の武蔵野台地と下総台地間に広がる低地で、利根川・荒川の堆積作用でできた沖積平野です。約13万年前の関東平野は、第四紀という寒暖が繰り返された氷河時代の末期にあたり、ほとんどが古東京湾と呼ばれる海の中にありました。1万8000年前の関東平野は、北半球の広い範囲に氷河が発達して、海水面は約100m低下し、東京湾はすべて陸地になりました。このころ富士山は盛んに活動し、降り注いだ火山灰は関東ローム層と呼ばれる赤土層になりました。約6000年前には氷が溶け出して海水面は上昇し、奥東京湾といわれる2つの入江ができました。その後、海面低下によって陸化が進み、約2000年前に弥生の小海退と呼ばれる海面後退があり、東京低地が姿を見せ始めました。