神田明神

千代田区外神田2‐16‐2
03-3254-0753
御茶ノ水駅より徒歩5分

  
神田明神御社殿                     神田明神隋神門



一の宮 大己貴命
二の宮 少彦名命
三の宮 平将門命

 正式名称・神田神社。東京都心一〇八町会の総氏神様で、神田・日本橋・秋葉原・大手丸の内、そして東京の食を支える市場の発祥地の氏神様として、青果市場・魚市場の人々からもあつく崇敬されています。縁結び、商売繁盛、社運隆昌、除災厄除、病気平癒など数多くのご神徳をお持ちの神々です。
 天平二年(七三〇)のご創建で、江戸東京の中で最も歴史ある神社のひとつです。はじめは現在の千代田区大手町・将門塚周辺に鎮座していましたが、徳川家康公が江戸に幕府を開き江戸城が拡張された時、江戸城から表鬼門にあたる現在の地へ遷座いたしました。それ以降、江戸時代を通じて「江戸総鎭守」として幕府から江戸庶民にいたるまで多くの人々の崇敬を受けました。さらに、明治に入り、准勅祭社・東京府社に列格し皇居・東京の守護神と仰がれ、明治天皇も親しくご参拝になられました。
 境内には、日本初の本格的な鉄骨鉄筋コンクリート・総漆朱塗造の御社殿(国指定登録文化財)や、総檜造りの隋神門、神礼授与所・参拝者待合室・休憩所を兼ねた鳳凰殿、明神会館・資料館・石造日本一の大きさを誇るだいこく様尊像・えびす様尊像・江戸国学発祥の地碑・銭形平次の碑などがあります。縁結びのご神徳から神前結婚式も多く行われています。
 祭礼・神田祭は二年に一度執り行われ、江戸時代には江戸城内に入り徳川将軍が上覧したため、御用祭とも天下祭とも呼ばれました。また日本三大祭、江戸三大祭のひとつにも数えられています。現在は鳳輦・神輿をはじめとする江戸時代さながらの祭礼行列が、神田・日本橋・秋葉原・大手丸の内の広大な氏子一〇八町会を巡行する「神幸祭」と、氏子の町神輿約二〇〇基が町を練り歩き、神社へ迫力ある宮入をする「神輿宮入」を中心に賑やかに行われています。



石獅子

石獅子は、区内に残る数少ない江戸期の石造物の一つであり、当時の庶民の信仰を知る上で貴重な資料である。
「武江年表」には「文久二年(一八六二)十一月両替屋仲間より神田社前へ、岩石を積み、石にて刻みし獅子の子落としの作り物を納む」とあり、江戸時代でも幕末期に製作されたと考えられる。神社境内の獅子山に据えられていたが、大正十二年(一九二三)の関東大震災により獅子山自体は崩壊した。その際、子獅子は、紛失したものの、親獅子二頭は、保存され再建された獅子山に据えられた。

  
鉄製天水桶

神田神社本殿前にある鉄製の天水桶は、その碑文から、神田あるいは新川辺りの江戸の酒屋が世話人となり、「摂州瀧大石」と「筋違外」の酒屋により、弘化四年(一八四七)に奉納されたことがわかります。また他に「下り・地廻酒屋中」との碑文もあり、ここから株仲間との関わりが強く想起されます。諸問屋の株仲間は、享保時代(一七一六~三六)から特権化しはじめた商人が、田沼時代以降幕府に公認されてきたものです。この株仲間は物価騰貴の一因として見做され、天保十二年(一八四一)に解散が命じられました。しかしこの解散が、経済の一層の混乱をきたしたと判断され、株仲間は僅か十年後の嘉永四年(一八五一)新たな商人層を加えて再興されました。なお株仲間再興以後の本組の問屋名などを記載した「諸問屋名前帳」には、碑文にある世話人や願主などの名前を見出すことができます。
天水桶の奉納は株仲間の解散期間中のため、その碑文は「下り・地廻酒屋中」とされています。しかし、仮にもし株仲間が組織されている期間であれば、前述した通り奉納に係る商家は再興後の株仲間として組織されていることからしても、恐らくは「問屋中」などと表現されたでしょう。
他の碑文の内、江山関根為宝は、幕末の書家であり、天保十二年前後の著作が幾つか残されています。書道ばかりではなく歌をも詠み、音韻の学にも通じていたとされています。また二人の鋳物師の名前が見られますが、恐らくは神田の堀口武兵衛が仕事を請負って、川口の永瀬源七に鋳造させたものと思われます。
神田神社の「鉄製天水桶」は、江戸時代の信仰の一端、特に神田神社と周辺の人々との関わりを考える上で、欠くことのできない貴重な資料です。